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竹島を記載する昭和初期の隠岐の観光パンフレット、観光地図の複製版の展示について

<初公開>
 

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このたび、隠岐の島町では、公益財団法人日本国際問題研究所から、竹島を記載する昭和初期の隠岐の観光地図及び観光パンフレット、計3点の資料を撮影した写真データの提供を受け、その複製版を令和4年8月25日から久見竹島歴史館(隠岐の島町竹島資料収集施設)内で展示することになりました。3点の資料は松江市在住の方が所蔵しているもので、今回の展示に際して資料を提供頂きました。これら3点の資料が展示されるのは初めてのことです。

 

◆展示期間  令和 4 年8月25日 ~ 令和5年3月31日   

◆展示場所    久見竹島歴史館 (隠岐の島町竹島資料収集施設) 隠岐の島町久見311番3

 

 

◆展示する資料の資料名 

(1)    「隠岐」島根観光協会発行、昭和 11(1936)年頃

(2)    「最新版 隠岐島全図」、隠岐観光協会編、隠岐堂発行、昭和 14(1939)年頃

(3)    「隠岐」隠岐汽船株式会社発行、昭和 15(1940)年 2 月  

※(1)と(3)は隠岐の観光パンフレット       

      

◆資料の概要

(1)は、島根観光協会(島根県庁商工課内)が発行した隠岐の観光パンフレットである。発行年の記載はないが、記載内容から昭和 11(1936)年頃と考えられる。昭和 11(1936)年 10 月には、第二隠岐丸が新造、就航した。隠岐の名勝地の説明では、竹島も記され、「竹島日本海大海戦によって有名となった竹島は、(旧称松島)島後の西北海中に屹立する二ケの大岩より成り、海豹の棲息地である。」と記している。竹島の記載は、「大岩」を、昭和 6(1931)年 2 月及び昭和 8(1933)年 7 月、島根観光協会発行の『島根めぐり』では、「大岩礁」とするほかは同じである。竹島は当時隠岐汽船等を利用して観光で行くことはできなかったものの、隠岐の名勝地の一つと認識され、広く広報されていたことが確認できる。

 

(2)は、隠岐観光協会が作成した隠岐の観光地図で、縮尺 15 万分 1 の「隠岐島全図」のほか、「位置略図」と「西郷町略図」がある。発行年の記載がないが、海士郡海士村に昭和 14(1939)年創建の隠岐神社が記載されていることから、昭和 14(1939)年頃の発行と考えられる。地図左側の別図、本土と隠岐との位置関係を示した「位置略図」に竹島が記されており、「(竹島ハ隠岐島ヲ距ル西北八十五浬)」と記されている。竹島が隠岐に所属していることを示している。なお、この地図は、昭和 14(1939)年頃の発行のほか、昭和 11(1936)年頃の発行の地図も確認されている。

 

 (3) は、隠岐汽船が発行した隠岐の観光パンフレットである。隠岐汽船の航路を記した「隠岐国略図」では、北西方向に竹島が記され、島の周囲には、アシカとクジラの絵が記されている。また、島の名勝地の説明では、竹島も記され、「竹島西郷港より百浬、島後の西北海中に屹立する二個の大岩嶼と多数の小岩とより成る無人の島嶼であり、海驢の棲息地である。西暦一八四九年仏国船「リアンコールト」号の発見せしものにして日本海大海戦によって有名となった。」と記している。(1)と同様、竹島は隠岐の名勝地の一つと認識され、広く広報されていたことが確認できる。

 昭和初期には、昭和 8(1933)年 4 月には、斐伊川の改修と松江港築港工事の完成により、隠岐汽船は松江港まで航路が延長されたこと、昭和 10(1935)年 3 月には、大阪-大社間に急行列車の運転が開始され、同年 10 月には、松江-隠岐別府間の定期航空路が開設されたこと、昭和 11(1936)年 10 月には、隠岐汽船の第二隠岐丸が新造、就航したほか、同年同月には、松江-大阪間の定期航空路が開設されたことから、これらのパンフレット、地図が発行された時期は、隠岐への交通の利便性が飛躍的に高まったことが注目される。

さらに、昭和初期には、昭和 9(1934)年に鉄道省が発行した、当時の最高レベルの観光ガイドブックと言われる、『日本案内記中国・四国編』においても竹島が記載されている。「【竹島】 隠岐島の西北、157 粁、日本海中にあり、二箇の岩嶼より成り、断崖峭立、處々に洞門あり、海底深くして投錨困難である。海驢の蕃殖地で、西郷町の竹島漁猟会社がその捕獲を営んで居る。住民はない。この島は洋人の称するリヤンクール岩で、邦人はもと松島と呼んだが、明治三十八年島根県の所属となって、現名に改まった。日本海大海戦の際、我が艦隊は露国の第二艦隊をこの附近で追撃捕獲した。」と記している。

3 点の資料は、島根観光協会の『島根めぐり』、鉄道省の『日本案内記中国・四国編』に続いて発行された、隠岐の観光パンフレット、観光地図にあたり、島根観光協会や政府発行の観光ガイドブックだけでなく、地元で発行された隠岐の観光パンフレット、観光地図でも、竹島が隠岐の名勝地の一つとして紹介されており、竹島の存在が国内で広く認識されていたことの意義は大きい。ちなみに韓国側では、日韓で竹島問題が起きる 1950 年代以前に、竹島を記した地図は 1 枚も発行されていない。

 (解説:舩杉力修島根大学法文学部准教授)

 

 


このページに関するお問い合わせ
隠岐の島町役場 竹島対策室 竹島対策係
TEL:08512-2-2111
FAX:08512-2-6005