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町の歴史

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  隠岐は、古事記の国造り神話の記述の中で「隠岐三ツ子の島」として、本州や九州と並び大八島の一つに数えられるなど、太古の昔から常に日本の歴史の表舞台に登場してきました。

 先史時代、隠岐島は、石器の材料となる黒曜石の中国・四国地方唯一の産地であったことから、広範囲との交流がさかんになります。中国地方を中心に、数多くの遺跡から隠岐産の黒曜石が出土しています。

 古代から中世にかけては、佐渡、対馬等と並んで、朝廷から「一国」としての位置づけを与えられ、国政上の一定の役割を担うようになります。また、律令に定められた遠流の島として小野篁や後醍醐天皇など多くの貴人・文化人が配流され、都の文化がもたらされました。

 江戸時代半ばから明治時代にかけ、自然の良港を持つ隠岐は、蝦夷地と上方を結ぶ北前船の風待港として、多くの船で賑わいを見せます。

 明治初頭には、「隠岐維新(隠岐騒動)」と呼ばれる島民の蜂起があり、松江藩の統治から独立し、80日間にわたり自治政府が樹立されました。

 明治2年(1869年)、明治政府により、一時「隠岐県」の誕生を見ますが、その後、島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治9年(1876年) 島根県への所属に落ち着き現在に至っています。

 黒曜石の島

 黒曜石は、ガラス成分を含む岩石で、隠岐島後の各地で産出され、石器の材料として利用されました。隠岐では、その割れ目の模様が馬の蹄に似ていることから馬蹄石とも呼ばれます。

 旧石器時代から鏃などの石器に加工され、近世の隠岐では、硯や根付などにも使われました。現在は、久見地区の八幡黒曜石店が唯一、隠岐産黒曜石の加工を行なっています。

 

「隠岐国」として

 古代の日本では全国に国府が置かれ、それぞれの国を治める国司が配置されました。国司は都との行き来の際に駅鈴を携帯することで、各駅で馬や人夫を用意してもらいました。

 隠岐も一国として国司が置かれ、国司の使用した駅鈴が現在も玉若酢命神社社家の億岐家に残されています。日本全国で現存する駅鈴は、この億岐家のものただ一つです。

北前船の隆盛

 隠岐の港には、日本海航路の中継地点として多くの船が立ち寄りました。隠岐全体では、北陸地方を中心に多いときで年間2000隻近くが寄港しています。

 特に西郷港は、東西ともに3kmの奥行きがあり、自然の造り出した風待ちのための良港です。

 当時の西郷港周辺は、船旅の疲れをとる人々でにぎわったと思われます。

隠岐騒動

 

 

 

 隠岐騒動は、当時の隠岐の庄屋や神官が中心となり起こされました。

 井上甃介などの中心人物の間では、隠岐出身で孝明天皇の侍講を務めていた中沼了三の影響を受け、尊王攘夷の思想が培われました。

 中沼了三は、その後には、明治天皇の侍講も務めます。奈良県の十津川には文武館も設立しており、そのつながりから、隠岐の島町と十津川村は現在も交流を続けています。


このページに関するお問い合わせ
隠岐の島町役場 総務課 広報広聴係
TEL:08512-2-8572
FAX:08512-2-6005
MAIL:jouhou@town.okinoshima.shimane.jp