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隠岐の島町見解(竹島対策)

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■竹島領有権問題に関する隠岐の島町見解

竹島をめぐる歴史的事実はかなり古く、15世紀中期の韓国李朝時代に行われた「欝陵島の空島政策」にさかのぼる。

竹島は、伯耆国の大谷・村川両家が江戸幕府から受けた欝陵島への渡航許可(1616年)の頃から、中継地として、また漁猟地として、我が国の経営支配下にあったと言える。

明治時代に入って、隠岐島民が竹島でアシカ漁等に従事するようになり、日本政府は、乱獲を取り締まるために、1905年(明治38年1月28日)正式に『竹島』と命名し、隠岐島司の所管とすることを決定した。

それに基づき同年(明治38年)2月22日、島根県はその内容を公示した(島根県告示第40号)。

これにより、第二次世界大戦に至るまで、竹島は国内的には島根県に、また対外的には近代国際法に根拠を持つ無主地の先占(「領有権原」の取得の態様の一つ)として、日本国にその領土権の確立が宣言されたところである。

以来、第二次世界大戦に至るまで、旧・五箇村の久見地区をはじめとする島内漁業者により、アシカの生け捕り、サザエ、アワビ漁等が行なわれ、その漁労日誌や写真から当時を偲ぶことができる。
このように竹島を実効的に活用し、支配権を確立してきたという歴史的事実は、我が隠岐の島町が領有権を主張する最大の論拠となっている。

その竹島は、1945年(昭和20年)第2次世界大戦の敗戦終結を受け、占領軍の命によって島根県による行政権行使が一旦停止されたが、1951年(昭和26年)9月に米国との間に締結された「サンフランシスコ講和条約」(翌1952年(昭和27年)4月28日発効)において、日本の領土と確定された。これに危機感を抱いた当時の韓国李承晩大統領が、その条約発効直前の1952年(昭和27年)1月18日に突如として出したのが、一方的な海洋主権宣言である所謂『李承晩ライン』の設定であった。

1954年(昭和29年)、韓国は竹島に警備隊を常駐させ、以来、半世紀以上にわたり不法占拠が続いている。
このような状況の中で今日を迎えたことは、極めて痛恨の極みと言わざるを得ない。

更に、このような不法占拠が今後も続き、なし崩し的に行われるとするなら、如何に現下の現代国際法下にあるとは云え、いつの日か、既成事実として、韓国領土になったとしても不思議はなく、そのような意味から、2005年の島根県議会議員超党派による議員提案の『竹島の日』制定に、我々隠岐の島町民として大きな意義を感じるところである。

また、竹島領土権確立隠岐期成同盟会は、毎年国当局に対し、内閣府への対策本部の設置をはじめ、領土権の早期確立に係る要望活動を実施してきたが、その大半は未だ叶えられておらず、引き続き実現の日まで粘り強く活動を続けていく所存である。

1999年(平成11年)9月締結の「新日韓漁業協定」は、最大の課題であった竹島問題を棚上げする妥協案として「暫定水域」を設定、その範囲を決定し決着されている。

にもかかわらず、韓国はその後にあっても竹島(韓国名:独島)を自国領土とし、竹島周辺海域12海里(22,000mの範囲―1海里1,852m)を韓国領海水域として設定、更にその暫定水域についても漁場を占拠し、日本漁船の操業が出来ない状況を創り出している。

また、当暫定水域の監視、管理は旗国主義で、漁獲総量(漁獲可能量:タック)の規制や違反操業等への監視は自国船にしか及ばず、当海域漁場の管理体制が機能しているとはいえない状況となっている。このため、暫定水域の共同利用とは名ばかりの無秩序な海域となり、資源の枯渇が懸念されている。

このような状況の中で、我が隠岐島漁業者が操業する「紅ズワイガニ漁、バイ籠漁」等の沖合い漁業は、遠く新潟、秋田沖合いでの操業を余儀なくされ、時間的、経費的負担には計り知れないものがあり、莫大な被害を被っていると言わざるを得ない。

領有権問題と漁場確保問題は同じテーブルで議論すべき案件でなく、日韓両国がこれまで培ってきた友好親善交流を更に推し進めながら、先ず、暫定水域の秩序ある管理と保全に努め、共同漁場としての機能回復にどう両国が協調、協働していくかではないか。

政府には、1日も早い暫定水域での安全操業の確保と、両国による保全管理の実現に努めてもらうべき要請を引き続き実施していく所存である。


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